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東京高等裁判所 昭和29年(ネ)2083号 判決

控訴人(附帯被控訴人) 西本治三郎

被控訴人(附帯控訴人) 岡村ミサオ (いずれも仮名)

主文

本件控訴を棄却する。

附帯控訴により原判決を左の如く変更する。

控訴人(附帯被控訴人)は被控訴人(附帯控訴人)に対し金百万円及びこれに対する昭和二十六年四月九日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。

被控訴人(附帯控訴人)のその余の請求を棄却する。

訴訟費用は第一、二審(附帯控訴費用を含む)とも控訴人(附帯被控訴人)の負担とする。

この判決は被控訴人(附帯控訴人)勝訴の部分に限り仮りに執行することができる。

事実

控訴代理人(附帯被控訴代理人)は「原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す、被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする」との判決並びに附帯控訴を棄却するとの判決を求め、被控訴人(附帯控訴人)は控訴棄却の判決並びに附帯控訴として「原判決中附帯控訴人敗訴の部分を取り消す、附帯被控訴人は附帯控訴人に対し原判決のほか金百二十万円及びこれに対する昭和二十六年四月九日より完済まで年五分の割合による金員を支払え、訴訟費用は第一、二審とも附帯被控訴人の負担とする」との判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張並に〈立証省略〉ほか、いずれも原判決事実摘示と同一であるので、ここにこれを引用する。

理由

第一、被控訴人(附帯控訴人)――以下被控訴人と略称する――が明治四十四年生れであつて訴外高橋義五郎方に母と共に寄寓し大阪市北野梅花女学校を経て昭和六年専門学校を卒業し、控訴人(附帯被控訴人)――以下控訴人と略称する――が京都大学医学部を卒業し同附属病院眼科で研究をなし、倉敷病院に勤務しその後三島市と沼津市に医院を経営していること、控訴人が被控訴人とその女学校時代より肉体関係のあつたこと、控訴人が名古屋陸軍病院に応召中被控訴人と一、二ケ月同居していたこと、その後も関係を継続し昭和十九年十一月頃に及んだこと、控訴人が昭和二十一年四月頃被控訴人の母宛に被控訴人主張の如き趣旨の手紙を送つたことは、控訴人の争はないところである。

第二、よつてその余の被控訴人主張の事実につき案ずるに、右争なき事実と成立に争のない甲第一、二号証、第三号証の一ないし四、六ないし二十二、二十四、二十五、二十七ないし三十二、三十三号の一、二、三十四ないし三十六、四十二、四十三、第四号証の三ないし六、第五号証の一、二、八第七号証の一、二、四、五、第八号証の一、二、第九号証の一、二当審における被控訴人の供述により被控訴人が控訴人より交付を受けたことが明らかである甲第四号証の一(指輪)当審における被控訴人の供述と原審における鑑定人佐藤数雄の鑑定の結果に照し成立を認め得る甲第四号証の二、七、八と原審証人北浦つぎの各証言(第一、二回)、当審並びに原審における控訴人及び被控訴人の各本人尋問の結果(控訴人の本人尋問の結果中後記措信せざる部分を除く)を綜合すれば、

一、被控訴人は明治四十四年一月大阪府に生れ、大正二年九月その父を喪い、その後母かね弟正夫とともに亡父の実弟なる兵庫県川辺郡多田村に在住の高橋義五郎方に寄寓し、昭和三年三月大阪市北野梅花女学校を、昭和六年三月同所梅花女子専門学校国文科を卒業し(専門学校の学資の一部は控訴人これを支出した)、昭和七年六月家族と共に金沢市に、次で昭和十年京都市の肩書地に移り、爾来同所に居住していること。

二、控訴人は明治二十六年五月静岡県に生れ、大正八年九月婚姻して大正九年三月長男進大正十一年十一月長女緑を儲け、その間大正八年十一月京都大学医学部を卒業し、以来同大学、同附属病院に助手として勤務し、大正十四年頃岡山県倉敷市中央病院に勤務し、次いで大正十五年医学博士の学位を授与され同年三月三島市に眼科医院を開業し翌昭和二年沼津市に分院を設けその経営に当つて来たこと。

三、控訴人は大正十年頃前記高橋義五郎の子忠の眼病の診療に当り同家とも親しくなり、その頃被控訴人と相識るようになり当時控訴人は妻子を三島市の養父のもとに置き単身京都市に住み、その後前記中央病院に勤務するようになり、また三島市に眼科医院を経営するようになつても、屡々京都大阪方面に来り、大正十三年一月頃(当時被控訴人は数え年十四歳)からは小寺茂子などの偽名を用いて被控訴人の前記自宅に封書を送り被控訴人を大阪市梅田駅に誘い出し交際を重ねていたが、大正十三年一月三十日頃小寺茂子の偽名を用い被控訴人に封書を送つて同年二月五日及び二月七日前記梅田駅に来ることを求め、被控訴人が同月七日これに応じて来るや大阪市甲陽公園に誘い行き同所において当時全く情事を解しない被控訴人を姦淫し、以来昭和七年六月まで小寺茂子、川合ふみの、石井さだ子などの偽名を用い被控訴人の前記自宅宛に、或はまた縁故者の如く装つて本名を用い被控訴人の通学する学校宛に、封書或は葉書を送り、被控訴人を大阪市梅田駅などに誘い出し旅館等において情交関係を継続して来たこと。その間、昭和二年十月被控訴人が修学旅行で東京に来るや、控訴人は旅館宛に封書及び電報を以て被控訴人を誘い出し旅館等に連れ込み関係を続け、また昭和六年四月被控訴人が沼津市の控訴人の分院を訪れるや東京に誘いS、Yと刻印した指輪を与え分院に滞在せしめて関係を続けたこと。

四、昭和七年六月被控訴人らが金沢市に移るや前記関係は一時断えたが昭和十年被控訴人らが京都市に居住するようになるや控訴人は従前の如く屡々京都市などを訪れ、被控訴人を京都駅などに誘い出し或は沼津市に来ることを求め、昭和十九年十月二十八日頃京都市に赴き被控訴人方に宿泊して関係をなすまで、毎月一、二回関係を続けて来たこと及びその間控訴人は、

(1)、昭和十三年二月召集を受けるや、同年二月十六日附で被控訴人に対し「被控訴人の将来は自分がみる故安心せよ、決して生活に不自由させぬ、その代りどんなことがあつても被控訴人の身体は一切自由にさせぬ、この際これだけは約束しておく」との趣旨の手紙を与え、名古屋陸軍病院に応召して単身同地に赴くや被控訴人の来訪を求め、被控訴人も屡々控訴人を訪れた後同年九月頃より昭和十四年三月頃まで約半年間同地に同棲するに至つたこと。

(2)、昭和十六年三月右召集が解除されるや、三島市に帰り従前の如く被控訴人と関係を続け、昭和十六年十二月十二日頃被控訴人に対し「生別して妻もなくひとりでいる自分に被控訴人と約束した正式結婚が何よりも楽しみである」との趣旨の手紙を与え、更に昭和十七年三月召集を受け三島陸軍病院に勤務するようになつた後同年五月頃「昭和十七年五月十二日結婚の約束をして」と記載しその裏面に控訴人の財産を記載した控訴人の名刺を被控訴人に交付したこと。

五、昭和十九年十一月以後においては、控訴人は京都市に赴きたることあるも空襲警報などのため被控訴人に逢い得ず、少くとも昭和二十年五月頃までは従前に変らざる文通を続けて来たが、昭和二十一年一月被控訴人の弟正夫が戦死し、被控訴人が控訴人との関係を母かねに打ち明け、被控訴人より控訴人に対し結婚を迫るや、控訴人は態度を変じ被控訴人を罵る手紙を送り、被控訴人より再三の詰問的手紙が来るや遂に昭和二十一年四月母かね宛に絶交する趣旨の手紙を送り、更に昭和二十一年九月二十三日前記高橋義五郎に対し手紙にて被控訴人より控訴人に手紙を出さぬ様勧告を求め、昭和二十四年四月十五日母かね及び被控訴人に宛て裁判なり警察なりへ申し出るがよいとの趣旨の手紙を送り被控訴人との関係が全く決裂するに至つたこと。

六、他方被控訴人は、前記の如く大正十三年二月控訴人に姦淫され、その後心ならずも控訴人と情交関係を継続し長ずるに及びては深くこれに悩み、前記専門学校卒業後は屡々縁談もあつたが、右事情のため他人とは到底結婚を許されないものと考えるようになり、加うるに控訴人より威迫もあつてこれらの縁談を拒否し、ひたすら控訴人の意に従い控訴人の前記甘言を信じて来たが、昭和二十年五月卵そう膿腫、死胎児のため京都大学附属病院その他で数回の手術を受け結核性腹膜炎となり容易に全治しない状態となり、更に昭和二十一年一月弟正夫戦死後控訴人に結婚を求め、応ずるところとならないので手紙葉書等を以て控訴人に飜意を促すに至つたが、遂に前記の如く控訴人より昭和二十一年四月絶交の趣旨の手紙の送付を受け昭和二十四年四月十五日裁判なり警察なりに申し出るがよいとの趣旨の手紙の送付を受けるに至つたこと。

を認めることが出来る。当審並びに原審における控訴人の供述中には右認定と牴触する部分が幾多あるが、前記証拠と対照するときは容易に信じ難く、乙号各証を以ても未だ右認定を左右するに足りない。控訴人は、被控訴人は早くより控訴人に妻子のあることを知つていたものであり控訴人との関係は一種の恋愛である旨主張し、当審並びに原審における控訴人の供述中及び原審証人高橋義五郎の証言(第一、二、三回)中には、これに副う部分があるが、前記証拠に照しそのまゝには信じ難く、乙第二号証の二中にはこれに副う記載もあるが前記甲第四号証の七と対照するときは控訴人の右主張を肯認するに由なく、他に右主張を認めるに足る証拠がない。

第三、よつて被控訴人の主張につき案ずるに、被控訴人は控訴人との間に婚姻の予約が成立したと主張するが、被控訴人の全立証をもつても、前認定の事実をおいては婚姻の予約を認めるに由なく、他にこれを認めるに足る証拠がない。しかして前認定の事実によれば、控訴人には大正八年九月以来妻のあるものであり、かような場合に控訴人が被控訴人と婚姻することを約しても真意にあらざるものというほかなく、また仮りに控訴人がその妻と離婚することを条件に婚姻することを約しても民法第九十条によりその予約は効力なきものというべきを以て、被控訴人のこの点の主張は採用し難い。

次に、被控訴人主張の不法行為の点につき案ずるに、前認定の事実によれば、控訴人は最高学府を卒業し後には医学博士の学位を授与された教養ある医師であり、社会の儀表たるべき者であるにも拘わらず大正十三年二月当時思慮未だ定まらず、また全く情事を解さざる数え年十四歳の被控訴人を姦淫し、その無思慮と羞恥心に乗じあえてこれを継続し、その長ずるに及び婚姻の意思なきにこれある如く装つて被控訴人を欺きその関係を続け、昭和十九年十一月以降はたまたまその関係を継続すべき機会がなかつたとはいえ、少くとも昭和二十一年四月までは被控訴人をして結婚の望を抱かしめこれを欺罔して来たことは否定し得ないところであつて、かような関係においては当初の不幸なる情事が思慮定まらざる女性を心理的に永く支配し、被控訴人としては、控訴人との関係を遮断することは甚だ困難であるといわねばならない。従つて、全く控訴人が不法に被控訴人の貞操を弄びこれを侵害して来たものとなすにはばからないものであつて、控訴人は被控訴人に対し右侵害によつて被控訴人の被つた精神的損害を賠償すべき義務あるものである。もつとも被控訴人は専門学校を卒業し女性としては高等の教育を受けた者であつて、被控訴人が控訴人の言動に対し用心深くあり且つ真実同人との婚姻を期待するのであれば当然控訴人の身元についても調査すべきであつて、若しこの調査すれば控訴人は妻子あるものであり到底同人との婚姻の望なきことが判明したはずであり、従つて控訴人との関係を早期において清算しえたであろうと思われるが、このことは損害賠償の数額を算定するにつき斟酌されることはあつても、控訴人が被控訴人に対して負う賠償の責任には毫末の影響を及ぼすものではない。

控訴人の時効の抗弁につき案ずるに、当審並に原審における被控訴人の本人尋問の結果と口頭弁論の全趣旨により、被控訴人が静岡家庭裁判所沼津支部に控訴人を相手方として調停の申立をなしその調停手続進行中昭和二十五年三月頃控訴人が慰藉料の支払義務を承認し調停は専ら金額の折衝に終始していたことが明らかであるので、これによれば控訴人は時効の利益を抛棄してこれを承認したものというべく、控訴人の当審並に原審における本人尋問の結果中右認定と牴触する部分はそのまゝには信じ難く、当審証人木村代吉の証言及び乙第十四号証の一ないし十五を以ても未だ右認定を覆すに足らず他に右認定を左右するに足る証拠がない。しかして、本件訴訟が昭和二十六年三月二十日提起されたことは当裁判所に明らかであるので控訴人の右時効の抗弁は採用の余地がない。

第四、進んで損害賠償の数額につき案ずるに、当裁判所において真正に成立したものと認める甲第六号証の一及び当審並に原審における被控訴人の本人尋問の結果によれば、被控訴人方はもと水田約三町歩ほかに山林を有し農業に従事していたが、農地解放後は全くこれを失い現在では無資産となり加うるに前認定の如く病後の経過が思わしくないので医療保護を受けていることを認めることが出来、更に前認定の如く被控訴人は大正十三年二月以降昭和二十一年四月の長きに亘り控訴人にその貞操を侵害され、これによつて生涯の運命を決定されたともいうべきものであつて加うるに昭和二十年五月以降病弱となつて、最早婚姻はもとより就職もほとんど望み得ない状況にあるなど前認定の事実を併せ考えると被控訴人の今後の生活の資となすに足る金額を以て相当とすべきも、更に当裁判所において真正に成立したものと認める甲第十号証及び当審並に原審における控訴人の供述によれば、控訴人は三島市に三百九十八坪沼津市に五百四十四坪大仁町に三百五十九坪の宅地を有するほか山林約二町歩家屋有価証券などを有し現に三島市において眼科医院を経営し年収金百五十万円を下らないことが認められるので、これらの事情と、前認定の諸事情を考え更に前記のように被控訴人においても控訴人との関係を清算すべき機会のなかつたわけではないことが窺えるのでこの事情を併せ考えるときは、当裁判所は賠償額は金百万円を以て相当と考えるのである。

第五、よつて控訴人は被控訴人に対し金百万円及びこれに対する本件訴状が控訴人に送達された日の翌日であることが明らかである昭和二十六年四月九日以降完済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払義務あるものというべきを以て、本件控訴は理由なしとして棄却し、附帯控訴は主文認容の範囲においては理由があるので右趣旨と異る原判決を変更し被控訴人の請求中右範囲の請求を認容しその余を棄却し訴訟費用並に附帯控訴費用の負担につき民事訴訟法第八十九条第九十二条第九十六条を適用し、仮執行の宣言につき同法第百九十六条を適用して主文の通り判決する。

(裁判官 岡咲恕一 亀山脩平 脇屋寿夫)

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